ゲームはスポーツなのか?

まろんは比較的ゲームが得意である。

昔と違ってオンラインが定着して来たことで、家庭内で閉じこもっていたコミュニティが飛躍的に拡大した。実に進歩して来たと感じる。

丁度、NHKの番組でもゲームが取り上げていて、「ゲームはeスポーツである。コミュニティは1億人を超える。将来的にはオリンピック競技に申請したい。」といった動きがあるそうなのだが、一方でゲームはスポーツなのか?という反発がある模様。一般には受け入れがたいことのようだ。

しかし、一つ待って欲しい。

ゲームをスポーツにカテゴライズすることが目的なのか?

スポーツは総称だ。

テニス、卓球、柔道、野球といった、特定のルールの元に競い合う行為の総称がスポーツなのであり、これにゲームを加えることは成り立たない。

何故なら、ゲームもまた総称であるからだ。ゲームはeスポーツだ!と語る前に、会話のレイヤーが異なることに気がつくべきで、ゲームを個々のタイトル(ストリートファイターギルティギア、鉄拳...)までレイヤーを落とさなければ会話として成り立たないのである。

これらのゲームタイトルをスポーツに加えるかどうかで議論するなら話はわかるが、それも現実的ではない。

何故なら、ゲームタイトルの寿命は限りなく短いのである。

ストリートファイター4と、ストリートファイター5は、異なるゲームである。これを一つで括ることは横暴である。全てが同じルール条件下に置かれることが重要で、バージョンやタイトルでも、それが変われば同じ競技とは見なすべきではない。パッチが当たっただけでも、同じ競技として認めてはならず、ワールドレコードという概念も吹き飛ぶのだ。

そして、各ゲームタイトルの人口をみれば、一つ一つはとても小さい。「ゲームの総人口1億人」と言い放つことは、スポーツ総人工ウン十億と、大見得を切ることと同じくらい不毛である。

よって、オリンピック競技にゲームでもeスポーツでも呼称はなんでもいいが、そのジャンルが入ることは未来永劫にして、ありえない。

オリンピック競技にストリートファイター5が入ることは検討できるかもしれないが、子供の世代まで同じゲームをし続ける競技になり得るかというと、そんなことはない。そもそも、ゲームのタイトルが特定の企業利益に繋がってしまうのだから、更にあり得ない。

新しいナンバリングタイトルが出る度に、コミュニティが大きく変動するのだから、ハナから破綻している。

ゲームの1タイトルと、1スポーツ競技には、その根底の精神に大きな隔たりがあることを理解しなくてはならない。

本題に戻るが、ゲームがスポーツであることを議論することは、どうでもいい。それを浸透させ定義を変える労力は、全くもって見合わない。

しかし、ゲームをスポーツという括りにするという「手段」をとることで、裏の「目的」を達成させようとする存在がいることは、認識すべきだ。

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田村ゆかりさんへ贈る言葉

まろんが、twitterを見ていると、田村ゆかりさんの悲痛な叫び声が、時折、聞こえてくる。

彼女は人気声優であり、半ばアイドル化していて、王国民と呼ばれるファンによって支えられているが、現実には辛い日々が多いようなのである。

最近では、このようなツイートをしている。

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 これらに対するリツイートを見て、まろんは気の毒に思う。彼女のことを想ってくれる人などいないのだ。

  • ファンが支えていますよ!
  • twitterでもいいから吐き出してください!
  • 「自分の代わりはいる」は応援してる人を貶めてますよ!
  • 一人で背追い込まないで!

実に見ていられない。

人間とは、これ程までに、身勝手になれるものなのか。

心から頼れる人がいたら、そもそもtwitterで悲鳴などあげない。居ないものを王国民は一方的に相手に求め、いままで通りのアイドルとして、私たちを喜ばせろと言う。

声優の「田村ゆかり」としてしか、誰も見てくれていない。一人の女性としての「田村ゆかり」を気遣ってくれる人はいないである。

それも当然だ。コメントを寄せるフォローワーは王国民だからである。まろんは王国民ではないので、客観的に見ているが、「誰も彼もが、彼女のためと言いつつ、自分ため」の意見でしかない。なんだかんだで頑張って、いままで通り、声と歌を聴かせろ。自身の依存症を保つために、彼女を利用している人ばかりなのだ。

彼女が辟易してるのが手にとって見えるのである。

頑張ってください!ほど失礼なものはない。もう十分すぎるほど、頑張っている。長すぎるほど頑張っている。息継ぎなしで、どこまで走らせるつもりなのか?

それでも責任感で投げ出す事ができずに、押しつぶされている。

まろんが、彼女に言葉を贈るとしたら、こう伝えたい。

「人のために生きるのは疲れたでしょう。貴方の代わりとなり、象徴になってくれる人は他にもいるのです。貴方は自分がしたいように生きて良いのですよ。誰かに嫌われたり、惜しまれる事があっても、それはその人の問題であり、貴方が責任を持つ必要はないのです。」

 

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眞子さまの結婚延期についてボヤく

一昔前は、家同士で縁組を行うこともあったし、意向に反することがあれば駆け落ちするようなこともあったかもしれない。まろんは公人ではないので、自分の意思で相手を選ぶことができるが、残念ながら、そうでない方もいる。

延期の理由

当然ながら、小室氏の現状のステータスに起因していると考えるべきである。

それは眞子さまのお言葉から伺うことができる。

眞子さまは「予定を大幅に変更することは、私たちの結婚に快く協力してくださっている方々に多大なご迷惑とさらなるご負担をおかけすることとなり、大変申し訳なく思っております」とも記した。

まともな状況なら祝い事である結婚に対して「快く」という単語は出ない。

現在、お二人はバッシングの最中にある。

状況が改善しない限り結婚は許さないための延期である。

 

結婚に反対しているのは誰か

宮内庁(民意)以外にありえないだろう。

親族は「(人柄が)いい人が見つかってよかったね。」でしかなく、会見までさせてしまった程だ。民意や品格を守るために、いまさら反対するのは宮内庁しかいない。

宮内庁は「報道とは無関係です」と公開しているが、ここで関係がありますと言えば、無能極まりない。

 

宮内庁が仕事をしていない

「報道があったから意思が変わられたということではない。ご結婚の意思は変わりないと承っている。報道による延期ではない」と話し、否定した。

恋は盲目でもある。今のことしか見えていない状態にあるだろう。結婚を誓い合った二人は、よほどのことがない限り、結婚の意思を変えるわけはない。報道程度の内容では、二人の想いはむしろ燃え上がり、強まるぐらいである。

しかし、他人事のように、お二人の意思に変わりはないと言い放つ宮内庁には、苛立ちを感じる。

そもそも、宮内庁が最終的に反対するのであれば、なぜ、お付き合いし始めるときに、十分な身辺調査をしておかないのか。その段階で、条件付きであることの合意をえておくべきである。

今回の出来事は、宮内庁の怠慢に他ならない。

 

絶対に阻止しなければならないこと

取り立てて二つあると考える。

  1. 品位損なうこと。歴史に汚点を残すようなことがあってはならない。例えば、天皇が政権を握っている我が国で、刑法に抵触する恐れが機会が身辺も含めて発生する恐れがある。または、外交問題に発展するなどは、最悪のケースだ。
  2. 税金の流出を防ぐこと。今回の結婚で特別計上する1億5000万円の出所は税金であり、これを「使い込まれました。」「借金の返済に当てました。」ではすまない。もっとすまないのは、浪費癖がはげしく「生活が成り立たないので、お金をください」と眞子さまが言い出すことだ。税金が絶え間なく流出し、豪遊されでもしたら、あらゆる所が崩壊してしまう。

結婚は破断になるのか

宮内庁の条件をクリアできるかによる。課題とは、この延期期間が2年と長い。天皇退位までの期間が十分に開けられないことと、水を差すことができないことから、半年以上は時間がかかる条件なのだろう。ふた通り想像できる。

 

  1. 条件がクリア可能である場合。例えば、社会人として自立する。将来設計が磐石であることを周りを納得させ、眞子さまを養うことができることを証明する。周りの揉め事を解消しておく。宮内庁の発表通り、文字通り、準備期間と捉えるならである。
  2. 条件がクリア不可能である、すなわち、彼の生い立ちが相応しくない場合。これは既に破断しており、眞子さまの説得のために時間が必要であるのと、会見を済ませた後に、はい、無くなりましたとは言えないため、ほとぼりが冷めるてから発表させるのを待つ。

 なんにしても、眞子さまは26歳である。更に2年も費やして破断になれば、気の毒な話だ。

 

最後に

好きで生まれたわけでもなく、そこから抜けることもできない。誰かに操られた人生を進んでいる。自分で結婚相手を決めることもできない。そういった意味では、歴史上の姫君と、なんら大差はないのだ。しかし、放任しておきながら、最後に締め付けることだけは、どんな事であれ、してはならないのだと、まろんは猫ながらにして思うのである。

 

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物事を一つの断面から判断してはならない

まろんは猫であるがゆえに、裏表がない。餌をもらう時の振る舞いや鳴き声も常にストレートである。

しかし、人間殿はそう簡単ではないらしい。

 

「そんな人とは思わなかった!」という言葉がある。Twitterなどを見ていると、「自分の理想像を押し付けている!」「一方的な期待をしておいて、その言い草はなんだ!」という意見もチラホラでており、一部の同調を得ているかのようにもみえるが、しかし、物事はそんなに単純ではない。相手が、巧みに持ち上げ、騙しているなど、不実から出てくることも、当然ながらにあるのだ。

 

本当に怖いのは、言葉の断片を切り取って、さも核心を突いたかのように得意気に振る舞い、同調を得ようとする行為そのものである。

 

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何故、時が過ぎるのは早いものでと言うのか

まろんは申年である。気がつけば師走が過ぎて、年が明けてしまった。

「一年が過ぎるのは早いですね〜」と仲間内で語り合った人も多いと思うが、さて、なぜこの挨拶なのだろうか。時が過ぎるのが早い(短い)とは本当だろうか?

その理由をまろん的に考察してみる。

 

時が過ぎるのは早いのか?

よく例えられているのは、「ジャネーの法則」である。(引用wikipedia)

簡単に言えば生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する(年齢に反比例する)。

例えば、50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほどであるが、5歳の人間にとっては5分の1に相当する。よって、50歳の人間にとっての10年間は5歳の人間にとっての1年間に当たり、5歳の人間の1日が50歳の人間の10日に当たることになる。

他にも、歳を重ねることにより新鮮味がなくなる。同じことを繰り返すことにより慣れてしまう。という意見もある。

しかし、まろんはこれを真っ向から否定する。

いずれも、時間の概念ではなく充実の尺度で推し量っていると考えるからだ。一年という時間を「充実して過ごしたか」「充実できなかったか」を時間に結びつけることは歪曲である。

子供は時間の流れが遅かったのか?

何かに熱中して遊んでいればあっという間に1日が終わっている。

むしろ早かったと感じるはずだ。

 

大人でも、結婚して新しい家庭を持ち、新居に住み始め...としたときに、時間が遅く感じるか?否。早く感じるはずだ。

すなわち、年齢によって時の流れの感じ方が異なることはない。

有限である尊き時間が、儚くも消失しまったことを憂うことに差などないのだ。

これに納得できない人は、心情的な時の猶予を意識しているだけである。

 

異なる尺度

時間を失ったことに、安易に他人と同調するのは早計である。
何故ならば、「時間を失った」と捉えている人種と「時間が過ぎ去った」と捉えている人種がいるからだ。
リア充リア充と置き換えると分かり易い。今年は(充実した良い一年が)終わってしまいましたね。という人と、今年は(なんの進展もない退屈した一年が)が終わりましたね。という二つの尺度が存在している。

 

「時が過ぎるのは早いもので〜」と言うのは何故か?

年齢や生活スタイルにより時の経過の速度に差がないことを前提とする。

では、一年が早いというのは何を意味しているのだろうか。
この言葉は、年末年始で親族や友人と寄り集まり、思い返した時に、言うことがことが多い。


年が明けて1週間で「もう1週間か!早えな!」とは、いちいち考えないのであるから、一定の時間の積み上げがないと意識できないレベルであることと、「1月の2周目は特に早くなかった?」など、個人のよく分からない基準を持ってこられても共感できないことから、一年という万人が共通して測量し易いものに対して、積み上げた時間の価値が儚く散ることの憂いを持って共感を得る行為であると、まろんは定義する。

 

結論

以上から、「時が過ぎるのは早いもので〜」という言葉は、相容れない二つの人種(非リア充リア充)が、久しぶりに会った人と「何から話したらいいかわかんねぇ!」という状況を打開するために、時間が消失したという互いの共通項について、うわべだけの言葉で手軽に共感を得ることができる「希少な表現」であるとともに、一部の人では、時が過ぎるのが早いという慣用句が、充実感がなくなってきている人生と混同して解釈されることで憂いを増している便利な挨拶である。

 

とりあえず草臥れたので寝ることにする。

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パートナーを信頼しない

まろんはクライアントである。

現在、ビジネスパートナーと共にビッグプロジェクトに挑んでいるが、どうしてこんなにビジネスパートナーは仕事ができないのか不思議に思っていた。ヨクヨク考えてみれば当然である。まろんの会社はビッグプロジェクト故に、仕事のできる物を優先的にアサインしている。

しかし、ビジネスパートナーは、数多ある1つの企業として仕事を受けている。故に、凡人がくる。

嘆いても仕方がないので、コンサルタント業のようにパートナーのプロジェクト管理の支援をするが、全くもって効果が上がらない。その場では頷いていたとしても、次の日には何1つできていないのだ。この先長く付き合うので、少しでも向上してくれればと期待するが徒労に終わる。そして、連日の徹夜で成果を出さずに倒れる。

これはもうポテンシャルの話である。

パートナーを信頼しない

信頼とは無条件に相手を信じることである。

信用とは担保を元に信じることである。

まろんは信頼と信用をごちゃ混ぜにして考えていたのだ。仕事の取引において、信頼は不要であることを痛感した。

その人の能力を信用して仕事を依頼するのであって、その人が能力以上の仕事をすることを信頼してはいけないのだ。

残念なことに30代を過ぎた人間は自分の限界をとっくに理解している。

予想を裏切る伸びしろなどないのだ。よって、まろんは信頼せずに信用に徹することにした。

おかげで胃が痛くなることは無くなった。

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仲良くしたい時には共通の敵を作る

まろんは八方美人である。

猫の世界でもコミニュケーションはあるので、どのように立ち回るかは重要である。時折、不機嫌で八つ当たりする姉上と円滑な日常を送っているのが、その成果の賜物である。

人間社会においては更に複雑だと見える。猫と違ってご機嫌を取るのが大変だ。嫁姑、仲の悪い同僚、話の合わない学校の同期。先輩後輩。様々な立場と関係の形がある。

そんな多種多様な関係が渦巻く社会で円滑な人間関係を築く必勝が1つある。

それは「共通の敵を作る」である。

誰かを悪者に仕立て上げることで、心理的な連帯感を生み続けることができ、目線が互いの本質な価値観の相違から逸れる。芸能人でもタレントでも、相手の嫌いな人間に共感してみればよい。その一点においては、「あれ?こいつわかってるじゃん?イイヤツじゃん?」と共感を生み、相手の見方が変わってくる。実際にやってみると、その効果は覿面で驚くことだろう。しかし、よく考えてみれば、これは何も根拠のない理論ではない。某国が日本を吊るし上げていることと何ら変わらなく、その効果は歴史が証明していることなのだから。

そんなことをしていたら、世界平和が訪れない?

そのときは宇宙人を敵に仕立て上げればよいではないか。

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