まろんがSNSを見限ったワケ

SNSとの出会い

昔のことであるが、某SNSが活動し始めたとき、まろんにも得難い友人からのフレンド招待がやって来た。

SNSでは友達からの招待がないと、ログインして利用することができなかったのだ。

どんなものかと、早速、ログインしてみると、周りは知らない人ばかりであるため(当然だが)、みんなの日常を公開し、触れてもらうことに注力しているようだった。

確かに、SNS上で一人ぼっちのときに出来ることといえば、友達を作ることから始めるしかないのだろう。

趣味が合ったり興味が湧いた人のブログの記事を開き、コメントを残していく。

すると、コメントを残した人が気になってブログを覗きにいく。そしてコメントのお返しをする。

そうすることで、徐々にではあるが、村社会が出来上がっていくのだ。そう、SNSは小さなコミュニティの集合体となっていた。

まろんは、そこから形成されたコミュニティに、ある種の違和感を感じることになる。

SNSのオトモダチ

ブログの中身は実にたわいもない。

レストランでの食事の感想や遊びに行った感想。愚痴。失敗談。よくある景色だ。しかし、人が集まるにつれてコミュニティは斜め上に舵をとりだす。

例えば、「遊んでて勉強できなかった!」という記事が出る。

これがリアルの友人であれば「お前、計画性なさすぎ。先にやってから遊べよ」とでもなるが、SNSのオトモダチはそうはならない。

「遊んでる方が楽しいよね。今度は頑張って!」になる。すると、周りがその意見に同調していく。

それもそうだ。

SNSのオトモダチは友達ではない。

彼の失敗など知ったことではないし、彼の将来を案じる必要性もない。無責任な立場から言えることといえば、現在の関係性を保つために「肯定」する。

 一縷の正義

エスカレートしても状況は変わらない。

「オーダーと違う注文が出てきたから、店員に土下座させて、外の看板蹴り倒してきた!」といった記事が出たとしても、コミュニティで交わされる会話は「いいね」である。

「そもそも、お店が間違えるのが悪い!怒っていい!」とでも言って、そのコミュニティを維持しようとするために、文脈から読み取れる一縷の正義を振りかざす。

実際は注文を2点3点させてたり、伝えた気になっていただけかもしれないが、そんな事まで気を回す必要がないし、気にすることもない。

「肯定」してはいけないのは、自分の発言がトリガーになりそうな時ぐらいである。

例えば、土下座させるのは強要罪で、看板の蹴り倒しは器物損壊罪に抵触する恐れがあるが、これを「いいね」すると、コミュニティ内に存在する「ある種の境界」を越えたときに、逆に自分が叩かれたり、コミュニティで孤立する恐れがある。

しかし、無意識にでもその境界を見定め、当たり障りのない物言いに変えることは難しくない。

勘違い

まろんSNSを見限ったのは、この手の擁護を勘違いして受け取っている友人が大変多かったからである。失敗しても許される。擁護される。これを、親身になって言ってくれているのだと錯覚し、自分がコミュニティ障害を患っていることに気がつかないのだ。自身の成長が停滞していることに目を瞑り、傷の舐め合いを演じ続ける。そして、ズルズルと深みにはまり、抜け出せなくなっていく。

見ているのも見られているのも嫌になり、まろんSNSを止めた。

SNSの本当の使い方

これはシンプルで、SNSのオトモダチと友人になればいい。もちろん、パソコンを閉じたオフでの話だ。SNSはリアルな友人を見つけて交流を図るための、有意義なコミュニティツールなのだ。決して、インターネットが日常のオタクが、自分の居場所を築くためのツールではない。

その点、フェイスブックは良くできている。

顔や氏名を公開し、最初からリアルの友人でコミュニティを形成する。1から自分を取り繕う必要は無くなった。あとは同じ趣味のものを遊びに誘ってみるだけだ。

ちなみに、まろんはインドア派なのでSNSは不要である。

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